子供が大きくなった後、自分は何を生きがいにしたらいいのだろうか。
しばらくネットビジネスから離れていたある日のこと。ふとネットサーフィンした時に、ライティングの案件を発見する。
私がアフィリエイトやアドセンスを知った当時、ライティングの案件は200円程度だった。
それが1,000円以上の案件もあることを目にして、「好きなライティングで稼げるならやってみたい」と、再奮起する。
私の人生はライティングの歴史
私は子供の頃から文章を書くことが大好きだった。
幼稚園の年長の時には日記を書いていた。
文章を書くのが好きな私に買ってくれた赤い日記帳の表紙は、今でも鮮明に覚えている。
小学校の頃の私は人見知りが激しく、クラスメイトと遊ぶよりも図書館の本を読み、物語を作ることを好んだ。
暇さえあれば物語を書いていたし、読書感想文も得意だった。宿題で出された物語の作成に夢中になり、原稿用紙20枚以上の長文を書いて先生を驚かせた。
町のケーキ屋さんが募集していた、物語に応募したことがあった。
後日入賞の知らせと、お店のサービス券が送られてきた。そこは美味しいと評判のケーキ屋さんで、イートインもできた。もらったサービス券を使って、母とケーキとコーヒーを楽しんだことは、いい思い出だ。
中学校以降は友達と遊ぶことに夢中になり、ライティングから少し距離が出た。
けれども、気が向いた時に長編小説や子供向けの物語を書いたりしていた。
頭の中で沢山のストーリーが生まれて、それを文章として吐き出しているような感覚。
一時的に小説家に憧れたこともあった。
高校卒業後は、ほとんど文章からは遠ざかっていた。
それは、摂食障害と時期が重なる。
イギリスの大学に入学して再びライティング中心の生活が始まった。
今はどうか分からないが、当時大学の単位の割合は、エッセイが70%、試験が20%、授業中のパフォーマンスが10%だった(数字は定かではない)。これは、スピーキングよりもライティングが得意だった私にとって有利だった。無事に卒業できたのも、ライティングに支えられた部分が大きかったと思う。
私の人生は、ライティングとともに歩んできたと言っていいだろう。
自分にはライティングの才能があるということが、当たり前過ぎてないがしろにしてきた気がする。早くから自分の強みに気づいて伸ばす努力をしていたら、「自力で稼げない」と、嘆く日を過ごす必要はなかったのではないだろうか……。
待っていたのは泥臭い作業の毎日
ライティングで稼げる可能性を見つけた私は、クラウドソーシングサイトに片っ端から登録し、できそうな案件を見つけては書くことを繰り返した。
稼げると希望を見出したものの、現実はそう甘くはない。
1,000円といっても4,000文字以上など、時給に換算すると情けない気持ちになるような案件の方がほとんどだったのだ。書き終わって申請しても、基準から外れると容赦なく却下される。却下された場合の報酬はゼロだ。
「自分はこの道しかない」と思い、コツコツとタスクをこなす毎日。
やり方に慣れた時に、「1日5,000円稼ぐ」というふうに目標を決めて、そこに向かってとにかく書き続けた。
月10万円を突破したのは、専業ライターになってからおよそ1年後のことだった。